昭和44年11月5日   夜の御理解   大坪かよこ



 今朝からの御理解に、障子一重がままならぬ人の身、という御神訓を元にして、御理解を頂きました。その頂き終わってから、福岡の安東さんが、ご主人の方が、質問をされるんです。先日、御大祭の御直会に頂きました小さい冊子がございましたですね。あの、あれ、あの、須田こうたろう先生が、天地の法則と言うものを、まあ、科学者の立場で、分かりやすく説いておられます。人間が、幸せになっていくためには、天地の法則を知って、その法則に従うていかなければ、幸せになれないというその訳を、ずっと書いておらます。その、教祖の神様の生きられ方というものが、その天地の法則に、ぴったり従うて、おいでられるというようなことを説明された後にです、まだまだその分からない天地の法則と、自分たちでは、まだ、そこを究明でけていないところが、こりゃ、どんなに科学をもってしても、分からないところがあるんだというふうに結んでおられたがです、今朝の御理解を頂いておりますと、やはりその天地の、障子一重がままならぬ人の身、ということが分かれば分かるほど、ね、自分の知恵やら力ではどうにもできないことが分かれば分かるほどです、天地の法則に従わなければおられないのであり、天地の親神様の心に、従わなければおられないのである、というようなその説き方だったんです。そいでその、今日のその天地の法則に従うということと、今日の障子一重がままならぬ人の身ということについての係わり合いというのは、というその質問でしたんです。
私、そのことについて、私もそれを聞いて、ま、とっさにその説明ができなかったんですけども、まあよく考えさして頂いてから、お話しをしたことですけれど。
教祖の神様のこの、いわば、ほんとの生きられ方というのは、天地の法則に従われたというだけではなくてですね、それをもう一つ抜けておられたと、そこんところが、須田先生の説明ができかねるというとこ、そこんところであっただろうと言うて説明したら、はあ、その事聞いて分かりました、と言うてその、ま、今日、安東さん言うておられましたが。確かに天地の法則に従っての、生き方、そこには確かに、幸せがあるというわけですけれど、やはり金光大神の道はどこまでもですね、ただ幸せになるということだけではなくて、ほんとにお徳を受けるという道だと。とりわけ、神様の特別にご信用を頂く道だと。ということは教祖のその生きられ方の中にも、絶えず、いつもが、これですんだとは思いません、というそのいっぱしのことがでけておられながら、これで済んだと思わんという、その考えられ方がどういうことになっておるかというと、ま、例えて申しますとね、あの、情納米のことなんかから言えば分かる。例えば十俵の上納すればよいのに、今年は良くできたからというて、それに一俵添えておられる、といったような、その事跡が残っておるわけですよね。
ですから、それは、結局天地の法則ということは、なら、人間の世界でいうならば、警察法なら警察法とか、税法なら、税法とかといったような法に触れれば、こりゃその、罰さられることになるけれども、とにかくね、税金をただ納めていくとか、警察法に触れないように、悪いことをしさえしなければ、その警察法に触れることもないと、いうのがです、天地の法則に従うていくという生き方なんです。
ところが教祖の神様の場合はですね、その、もちろんその、人間の世界に、なら、警察法とか税法といったようなものも、守られると同時にですね、その、特別にです、警察なら警察に貢献しておられる。お役所ならお役所にですね、貢献しておられる。
ね、そこんところがですね、私は、金光様のご信心だということなんですよ。
ね、例えば、十俵でよいものを十一俵納められるというような生き方なんです。
ですから、その警察なら警察、役所なら役所からですね、特別に報償受けておられる。
ね、例えば警察でも、なんか人命救助なんかを致しますとですね、あの、金一封と賞状やらが貰えるようなもんです。法則に従うというだけではなくて、それよりもう一つ、いわば、次の信心を生活の上に表しておられたということ。
ね、そこんところが、須田先生が説明がでけないと仰ったところがそこであろうと、言うて私、今日話したんです。話しながら、確かにそうだろうと、私、思いました。
そして金光様のご信心とは、ただ、天地の法則を知って、法則に従うた、法則に逆らうような生き方をしないというだけではなくて、ね、そこんところをもう一つ、いわば、進んだ、例えば御用ということによって、神様と私どもとの間に、あいよかけよの働きあいというものが、生まれてくるという生き方なんですね、金光様のご信心、ね、御用しなくても法則に従うてさえいけばいい、たとえばの、いせきやさんたちの生き方は、それなんです。ね、法則に従うてさえいけば、そこんところをそのがっちり、そうと信じて行うて行くんですから、おかげを頂くわけですよね。
けども金光様の御信心は、それにもう一つです、なら、御用によって、ね、神様の助かりということ、ね、神様のお喜びというものを、獲得していこうという生き方なんです。ですから神様がまた、この氏子の用は神がたしてやると仰る、もうお徳の世界が、そこに開けてくるんです。
だから、須田こうたろう先生が、説明できないと仰っておられたのは、そういうふうなところだと、私は思うんです。
ね、天地の心が分かって、心に従うた生き方、ね、これでも、やはり幸せになれるんです。ね、いわば法に引っかかることがないです。そこへんのところを徹底して、まあ、ある意味合いでですよ、喜代司さんなんかは、こう、行じていかれるわけです。
だからお参りをしなくても、御用はしなくても、やはりおかげ頂くんです。
ですけど、金光様の御信心は、それからもう一歩、その向うを教祖様は自分で、そこんところを、いわば、証を立てておられるようにです、ね、教祖様のみ教えを頂くと、必ずそこんところが出てくるんです。
これで済んだと思いませんというのが、次の例えば、御用態度というか、姿勢になっておられます。ね、もう十俵納めれば、もう誰も文句は言いとうはないのだけれど、それをこれで済んだと思わん、という御精神がです、それでも今年は良く出来たのであるから、お上にやはり、一俵でも二俵でも、余分に出来ただけは、また納めなければおられないというのが、教祖の生きられ方であったわけです。全ての点においてそうであった。
そこに特別なご信用というか、特別に天地から報償を受けられたと、いうのが金光大神が受けられた、ご神徳であったとこう思います。
ね、例えば、人間の世界にもいろんな法則があります。その法則を破りますところから、刑を受けたり、罰を受けたりしなければなりません。
ね、信心させて頂くものが、天地の法則を破った生活をするから、どんなに金満家になっても、幸せが許されないのです。どんなに健康に恵まれておっても、そこに有り難いというものを感ずることができないのです。
それは自分で獲得した、それは財産であったり健康であったりするからなんです。そこで私どもが障子一重がままならぬ人の身であるという自覚に立って、ね、天地の親神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないという、信心、そこに、あなたのおかげを頂かなければ立ち行くことではないという生き方が、金光教の信心なんです。
そして、そこんところが分かれば分かるほどです、いうならば、それだけではない、ね、人が、この方は人が助かることさえ出来ればという精神なんです。
ね、ですから、その、それ以上のことが、できる。そこんところを、私はご神徳の世界、金光大神はいわゆるご神徳の世界に住まわれ、ご神徳の世界に住まわれる道を、金光大神は教えて下さった。ね、此方のことを生神、生神というが、此方ばかりでない、みんなもこのようなおかげを受けられると仰る、その、そういうおかげを頂くためには、天地の法則に従うた生き方だけではなくて、それにもう一つです、ね、私はほんとに意味においての、御用です、ね、神の用をたすという御用です。途中切れ